『テラスハウスALOHA STATE』がクソおもんないぞ

僕は映画版『テラスハウス:クロージングドア』を観てテラスハウスにハマり、ネットフリックスに加入したのをきっかけに新しいネットフリックス・オリジナルのテラスハウスも観て、さらにネットフリックスで観れる範囲のオリジナルメンバーが出ている過去回も観たテラスハウサーである。

だが最新シリーズの『テラスハウスALOHA STATE』が面白くなさ過ぎて、そろそろ観るのをやめようかと思っている。

 

クソおもろない理由その1:「中身のない美男美女たち」

今回のテラスハウスはメンバーの年齢層は20歳前後だ。

20歳前後というと、まだまだ精神的には子供なんで中身がなくても当然といえば当然。

だから出演者を批判する気は毛頭ない(僕だって20歳の時は鼻水を垂らしてトンボを追いかけていた)。

しかし今回の出演者は、『ゴシップガール』に出てきそうな裕福そうな半分ニートみたいな若者ばかりで、観ているこちらが全然感情移入できない。

それどころか、自らの生き方に危機感や熱意を持っていなくて、それが少々イライラさせる。

世の中にはもっと熱意を持って、野心と勤勉さを持ち併せている若者がたくさんいる。

そういう真剣に生きている人間こそがドラマを作るのであって、半分ニートみたいなセレブの若者の退屈な日常を見せられても、こちらは何も感じない。

セレブな美男美女の生活を映しておけば視聴者は食いついてくるだろうという製作者の安易な発想が透けて見える(たぶんそういう中身のないダラダラした日常を送ってきた制作者が作ってるんだろう)。

 

クソおもろない理由その2:「20歳前後の若者特有の自意識」

今回のテラスハウスを観ていて辛いのが、20歳前後の若者特有の過剰な自意識だ。

「自分はイケてる」感を必死で出しているが、実は中身は空っぽなので、人に見せるべきものも持っていなければ、人に語るべきものも持っていない。

そういう背伸びしている感じが見ていて辛いことがある。

それなりに真剣に30年ほど生きてくれば、人に見せるに値する成果や人に話す価値のある言葉も出てくるものだ。

20歳前後だと当然そういうものはないわけで、そういう若者がテレビに出て何かをパフォーマンスしたとしても、薄っぺらいものになるのは当然だ。

しかも今の出演者の多くは、真剣にそういう何かを追ってさえいない人も多くて、そういう人を見ているとこちらはイライラしてくるばかりで、出演者たちが何を言おうが何をしようがどうでもよくなってくる。

しまいには「なぜ俺はこいつらのクソおもろない日常生活を見ているんだろうか」という妙な気分に浸ってしまうだ。

 

クソおもろない理由その3:「外国人と日本人の感覚の違い」

前回のテラスハウスでもそうだったが、テラスハウスは新しくなるに従ってやたらハーフを多用する傾向が強くなっている。

今回は舞台がハワイということもあり、ほぼハーフばかりのメンバー構成になっている。

きっとネットフリックスを通して全世界にマーケットを拡大していこうという狙いがあるのだろうが、このハーフばかりという外国人の感覚で進んでいく展開がかなりテラスハウスの面白さを台無しにしている気がする。

例えばテラスハウスの代名詞と言ってもいい哲は、好きな女の子ができてもなかなかアプローチできず、デートの約束をするのにずいぶん時間がかかってしまう。

なのにそのデートで気合が入りすぎてフラれてしまう。

こういう気持ちって日本人ならすごく分かるし感情移入できるから、哲をもっと応援したくなる。

でも外国人の感覚を備えたハーフたちはそんなこと考えなさそうだ。

事実気に入ったらすぐにデートに誘うし、あっけらかんとしている。

日本人的なわびさびの世界がすっかりなくなってしまっているのだ。

 

以上『テラスハウスALOHA STATE』が面白くない理由をいろいろ考えてみた。

制作者には真摯に反省してほしい。

見かけだけきれいで中身がすっからかんの展開はやめて、もっとドロドロした人間本来の欲望にまみれた汚い世界を描いてほしい。

 

 

『この世界の片隅に』をめぐる左と右の戦争

ヤフー映画のサイトのユーザーレビュー欄がえらいことになってる(笑)。

 

能年玲奈が声優を務める『この世界の片隅に』のレビュー欄で戦争が起こっている。

星1つの「左翼的」レビューと、そういう左翼的なレビューを攻撃する星5つ勢力との戦争だ(星5つ付けた人が全員その勢力ではなく、左翼的な星1つを攻撃する人はほぼほぼ星5つ付けてるという意味)。

星1つ勢は、このアニメーション映画が右翼的であると攻撃している。

この作品の舞台となった海軍の基地や兵器工場があった呉を被害者として描き過ぎだと非難している。

真珠湾慰安婦や中国への侵略を忘れたのか。

お前らは殺人に加担したんだぞ!

左翼の人たちが言いそうなことばかりで、「またこいつら思考停止に陥ってるわ」という気になる。

 

そんなことはどうでもいい。

それよりも、この作品を観た人はまず能年玲奈が自分の本名も使うことを許されず「のん」としてクレジットされていることに憤りを憶えるべきじゃないのだろうか。

これこそ現代進行中の人権侵害じゃないか。

 

作品については、実際に観させてもらったが、特に右翼的とかは一切感じなかった。

『永遠のゼロ』がいろいろと批判された時も感じたが、100人いれば、100通りの物語が生まれる。

それぞれがそれぞれを物語を語っていい。

それぞれがそれぞれにとって真実なんだから。

そしてその中で優れた物語だけが後世に語り継がれていく。

それを1つの物語に強制することなどファシズムだし、それこそがナチスドイツや第二次大戦中の日本が犯した過ちじゃないか。

ナチスや第二次大戦中の日本を批判する左翼の人たちが多様な言動を許さないというのは完全な自己矛盾だ。

この映画の思想が気に食わないというのであれば、自分たちの思想に基づいた映画を作ればいい。

『この世界の隅に』とかいうタイトルで作ればいいのだ。

でもきっと売れない。

左翼的言動が説得力を持たないがゆえに、今人々に訴えかけないのと同様に、リアリティーに欠けることの多い左翼的メッセージはなかなか人々に訴えかけないだろう。

 

話をこの作品に戻すと、僕はこの映画がとりわけ優れているとも劣っているとも感じなかった。

ただ淡々と主人公の女性の視点から戦争中の日常を描いている。

小説とは違い、わずか126分の映画ゆえに、残念ながら人を深く描き切れていない。

テーマも少々ぶれている気がするし、主人公のキャラクターも今ひとつつかみきれない。

君の名は。』と比べると、作品が持つ熱量が劣っているし、完成度においても完全に劣っている。

物語としてまとまりに欠け、テーマにぶれが見て取れるのだ。

だから僕は星3つくらいが妥当かなと思う。

 

というわけで特にこの作品について熱く語りたいことはないのだが、ヤフー映画のレビュー欄で戦争している左と右の人たちにはひとこと言いたい。

くだらない論争をしている暇があったら、能年玲奈の人権を守るキャンペーンでもしなさい!

西部劇『マグニフィセント・セブン』は大当たり娯楽作だ

正月早々僕はアメリカへ向かう機上にいた。

もともと飛行機は大嫌いだ。

あの乾燥して鼻の粘膜がヒリヒリするのも、まずい機内食も、座席備え付けの小さなディスプレイも、汚くて狭いトイレも、そして何よりも狭苦しくお尻が痛くなる座席が大嫌いだ。

余りにも不快なせいで映画なんて見る気もしない。

だからだいたい持参したニンテンドー3DSでモンハンなんかをして時間をつぶしている。

そんな機上映画嫌いな僕がついつい最後まで観てしまった映画が『マグニフィセント・セブン』だった!

 

この映画にはもともと興味があった。

昨年末にたしか『ローグワン』を観に行った時に予告編が流れていたのを見て、すぐさま名作の予感がした。

こういう名作センサーってのは案外当たっていることが多い。

だから機上で映画を選択して『マグニフィセント・セブン』があるのを見て、とりあえず選択してしまった。

あれ?日本語字幕がない?

残念ながらアメリカン航空の映画には日本語字幕バージョンはなかった。

しかたなく英語で観る。

 

冒頭の悪者たちが善良な人々が住む町をのっとってしまうシーンを見て、この作品が間違いなく名作であることを悟ってしまう。

普段であれば、機上で映画を観始めても、しばらくすると眠くなったりしんどくなったりして途中でやめてしまう。

だが今回は違った。

どんどん引き込まれていった。

しかしつらいのは日本語字幕がないことで、英語だけで理解するには少々難しい箇所も多く、正確にストーリーを追うこともできなくなっていった。

それで、気がつくとすっかり眠りに落ちていた。

 

アメリカで要件を済ませ、帰国便のJALに乗った時、もう一度チャンスは訪れた。

しかもJALだけあって、日本語字幕付きのバージョンで『マグニフィセント・セブン』が視聴可だったのだ。

これは見るしかないと思い、すぐに選択した。

あっという間の2時間だった。

帰国便の航行時間13時間のうち、2時間を苦もなく消化できたのはこの上ない喜びだった。

 

この映画はシブい男たちであふれている。

しかも僕が好きな古い時代の男の美学が描かれている。

 映画『君の名は。』のような淡い恋物語は一切描かれていない。

ひたすら力が支配する世界における闘争、そして男同士の友情が描かれている。

 

デンゼル・ワシントン演じる賞金稼ぎサムはハードボイルドの真骨頂って感じのタフガイで、しかもとてつもないガンマンでありながら正義を貫く心を持っている。

イーサン・ホーク演じるグッドナイトもいい味出しているが、イーサン・ホークにしては物足りない存在感となっている。

意外と心に残っているのはアメリカン・インディアンのレッドハーベスト役のマーティン・センズメアーで、ガンマンたちの中で一人弓矢を武器に活躍する様子はインパクトが強烈だ。

しかし、何と言っても、マグニフィセント・セヴン、主人公の7人の男たちの中で最も大きな存在感を見せたのがギャンブラーのジョシュ役であるクリス・プラットだ。

 

ギャンブラーといういい加減な稼業を続けながらも、次第に正義と仲間との友情に目覚め、大人のタフガイへと成長していくジョシュの滅びの美学は実に素晴らしい。

彼は7人の中で最も大きな存在感で観客を圧倒する。

この映画を観るまでクリス・プラットという名前はほとんど知らなかったのだが、この映画を観て、彼がたぐいまれな素晴らしい才能を持った俳優であることを確信した。

映画俳優の中には、そういうたぐいまれな才能と存在感を持った俳優がいて、そういう俳優は画面に出てくるだけで作品をワンランク上の作品へと変化させてしまう。

この作品の中で間違いなくクリス・プラットはそういう大きな役割を果たしている。

 

この映画は1961年に公開されたスティーブ・マックイーン主演『荒野の七人』のリメイクである。

僕が映画少年だった頃、『荒野の七人』を観て、スリリングな展開と描かれている素晴らしい人間性に心躍らせたものだ。

男たちの友情って素晴らしいと思ったし、正義を貫き、時にはそのために命を懸けるって素晴らしいと思った。

そして何よりもこの映画の舞台であるアメリカって素晴らしいって思った。

 

しかしその『荒野の七人』は実は日本を代表する映画監督、世界のクロサワの『七人の侍』のリメイクだとのちに知った。

若かりし頃の僕があこがれ、心を動かされた『荒野の七人』は日本映画のリメイクだったのだ。

そうして今その『荒野の七人』はリメイクされ『マグニフィセント・セブン』となって公開されている。

世代や時代を超えて訴えかけてくる作品って素晴らしいと思う。

この映画のエンディングで、昔の『荒野の七人』でのテーマ曲が流れる。

あの音楽を聴いた時、一気に心は昔に時代をさかのぼった。

まだ若かりし頃へ。

新スタートレックのエンディングでもやはり同じ経験をしたが、こういうリメイクを通して昔の自分へとフラッシュバックできるのもまた映画の醍醐味なのだと思う。

 

最後に一言、この映画にはほぼ男たちしか描かれていないのだが、唯一描かれている女性エマにも注目だ。

彼女の魅力、僕はかなりエロさを感じたのだが、その魅力をぜひぜひ見てもらいたい。

実はこの映画の陰の立役者は彼女ではなかろうかと思わせるほどだ。

そのエロさに思わず目が釘付けになることも二度や三度ではなかった。

もしかすると、飛行機の上でこの映画を最後まで観ようと思ったのはエマのエロさのせいかもしれないとさえ思う。

『ローグ・ワン/スターウォーズ・ストーリー』は完成度の高い娯楽作だ

平和に暮らしていた家族のもとに悪の帝国軍の兵士たちがやってくる。
一人娘だけは何とか逃げ切るが、母は殺され、父は連れ去られる。
マッツ・ミケルセン演じるゲイレン・アーソは極めて有能な兵器開発に携わっている技術者で、スターウォーズファンなら誰でも知っている惑星破壊兵器デススターの設計に必要不可欠な人物だったのだ。
帝国軍は彼を使ってデススターを建設するつもりだったのだ。

 

両親を一気に失った娘、どこか『スターウォーズ/フォースの覚醒』と似てなくもない。
今や女性が活躍する時代なのだろうか。
『フォースの覚醒』でも、今作でも、男は悪者もしくは脇役で、主役は女性だ。

 

僕はあまりスターウォーズファンではないが、この冒頭シーンで一気に物語に引き込まれた。
なぜか?
ゲイレン役のマッツ・ミケルセンの大ファンだからだ。
彼は知る人ぞ知る、今最も輝いている俳優で、そのきっかけとなったのが、アメリカのTVシリーズ『ハンニバル』でのハンニバル・レクター役だ。
冷酷なサイコパスでありながら、頭脳明晰で膨大な知識を備えた、洗練さを極めたミケルセンのハンニバルは、初代ハンニバル役を演じたアンソニー・ホプキンスを超えたと言っていい。

この作品の中でもミケルセンは桁違いの存在感を見せつけている。


しかし、この映画のすごいところはそこではない。
僕が崇拝するレクター博士役をこれ以上ないくらいに見事に演じたミケルセンの存在感がかすむくらいに、それぞれの出演者たちの存在感が際立っているのだ。
最近の映画でここまでキャラクターを描ききった映画があっただろうか?
最近の映画はやたら迫力あるCGや技術には優れてはいるものの、映画の最も重要な要素であるキャラクターの描写は疎かにされている作品が多い。
だから観客はあまり登場人物に感情移入できない。
その結果物語体験が薄っぺらくなり、作品への満足感もあまりなかったりするのだ。

 

この作品には様々な魅力あるキャラクターが登場する。
美人だがタフさを兼ね備えているジン、イケメンでやさしいが正義を重んじるキャシアン、ハードボイルドなアンドロイドK-250、アジア系の盲目の剣士チアルート、強力な重火器を操るベイズ、帝国軍のパイロットでありながら正義の心に目覚めたボーディー、それぞれが皆魅力的で、彼らの活躍を見ているだけでドキドキワクワクできる。
特に盲目の剣士チアルートはすごい。
座頭市のように、目が見えないのに敵を正確にとらえ、長剣で敵を一刀両断する。
もうこれは、クロサワの『七人の侍』ではないか!
(何となくそう思ったのですが、実は『七人の侍』観てません)

 

今回もネタバレは避けたいため、この辺で映画の内容については説明を終えたいと思う。
ただ、最後にひとこと言わせてもらうと、これは観て損のない映画だ。
オープニングからエンディングまであっという間に過ぎ去る。


いい映画というのはそういうもので、よく覚えているのは同じくSF映画の新『スタートレック』シリーズの最初の作品だ。
映画が始まって間もなく尿意をもよおし、トイレに行こうかどうか考えたのだが、両側に人がいて行きづらくて我慢していた。
しかし映画の内容があまりにも面白くて、どんどんストーリーにのめりこみ、気がつくと尿意が消えていた(ちなみにこれ以降映画を見る時は通路側に席をとることにしている)。

 

逆もある。
映画が始まってちょっとした尿意をもよおし、「ま、これくらいだったら最後まで我慢できるだろう」と思っていると、どんどん尿意がひどくなるパターンだ。
おそらく映画があまりにもつまらなくて、映画以外のことに気が行ってしまうのだろう。
尿意は映画の質を見分けるバロメーターなのだ。
『ローグ・ワン』は間違いなく尿意を寄せ付けない傑作である。

この冬は本格ホラー映画『ドント・ブリーズ』で凍り付こう

息もできない怖さとは?

 

『ドント・ブリーズ』というタイトルは日本語に訳すと「息をしてはいけない」という意味になるが、まさにそのままの映画だ。

 

映画の冒頭、若者3人がお金持ちそうな家に盗みに入る。
警報装置はあるが、彼らのうち白人男性のアレックスはその警報システムの盲点を熟知していて、入って30秒以内に警報をオフにすると警察に連絡が行かないことが分かっている。
彼らは鮮やかな手際で盗みに成功する。

 

若者は黒人男性一人と白人の男女の3人組だが、軽いノリで盗みをしている黒人男性マニーとは対称的に、若い女ロッキーは少々複雑な家庭状況を抱えている。
彼女が盗みをするのは、貧困のせいで完全に家庭崩壊した家族のもとからまだ子供の妹を助け出し、カリフォルニアに移住するためなのだ。

 

盗品を売りさばいた時、黒人のマニーはある貴重な情報を耳にする。
あるゴーストタウンに住む老人、しかもイラク戦争で負傷し全盲となった老人が、自分の家に30万ドル(3千万円以上に相当)もの大金を隠しているという情報だ。
これはどう考えてもボーナスステージじゃないか!

 

当然マニーはノリノリでこの話に飛びつく。

ロッキーもすぐこの話に飛びつく、「これで大金をつかめばすぐさまカリフォルニアに移住できるわ」ってわけだ。
でもアレックスはしぶる。
彼は慎重な人間で、盗みをする時も1万ドル以上は盗まないという方針をとっている(1万ドル以上の窃盗は重盗罪になり最高10年の懲役刑が科せられるらしい)。
しかしロッキーにひそかに恋心を抱くアレックスはロッキーの願いを無視することはできず、しぶしぶこの盗みに乗ることにする。

 

つけっぱなしのテレビに映る少女?

 

いつものように下見をし、入念に準備されたおかげで、仕事は首尾よく進む。
獰猛な飼い犬は睡眠薬を入れられたエサで眠らされ、家の中に忍び込み、家主を眠らせるためにマニーは階段を上り、盲目の家主の部屋に入る。
廊下を歩くと幼い女の子の声が聞こえる。
「あれ? 誰かいるのか?」と思うが、家主が寝ている寝室に入るとテレビからの声であることが分かる。
テレビ画面には幼い女の子が移っている。
どうやら家主の男に話しかけているらしい随分前に撮影されたビデオ映像だ。

 

事前の情報で分かっていたのだが、この家主には昔一人娘がいた。
だがその娘は交通事故で命を落とした。
失意の男はその後もその家で一人住み続けているのだ。
周りには人気のない空き家ばかりだというのに。

 

マニーが男の部屋に入ると、男がベッドで寝ている。
次の瞬間、男が急に起き上がった!
黒人のマニーはハッとして身構える。

 

戦いの幕開けか?

 

しかし男はただテレビのスイッチを消すために起き上がっただけだった。
スイッチを消すとすぐにまた寝てしまった。
マニーは催眠薬を部屋に散布する。
これで男は深い眠りにつくはずだ。

 

ここまでは完璧だった。
ところがそううまくいくわけがない。
3人がこの盲目の退役軍人から30万ドル盗んで、マニーは毎晩キャバクラで豪遊し、ロッキーは幼い妹を連れてカリフォルニアに移住し、アレックスも彼女についてカリフォルニアに行き大学でビジネスでも勉強し、事業を立ち上げ大成功しました、なんてストーリーになるわけがない。
そんな話誰も望んでいない。

 

盲目で年老いた退役軍人っていうと、一見憐れむべき人のように思われるかもしれない。
でもこの老人は違う。
彼は不死身の肉体を持っている。
まるでランボープレデターのように。
いやチャック・ノリスか、スティーブン・セガールのように。

 

本当に怖いものとは?

 

物語が進んでいくと、いつの間にか我々は、どうも憎めない3人組の窃盗団を憐れんでいることに気づく。
おいおい、頑張れ!負けるな!気を抜くな!
相手はヒョードル並みに強いぞ!
お前らはヒョードルvsノゲイラ見たことないのか?
Youtubeで見ろ!
あれを見て対策をしろ!
絶対マウントは取らせるな!

 

これ以上はネタバレになるので、もう何も言わないが、とにかくこのホラーは見る価値がある。
何が怖いって、この盲目の老人は、自分の○○を○○保存するほどの怖いやつなのだ。
しかも自分の娘を事故で殺した○○を○○して、○○に○○するというとんでもないサイコパスなのだ!
不死身の肉体を持つ男に追い回されるのは怖い。
でももっと怖いのは、サイコパス的な壊れた人間の精神だ!

 

この映画を観て、ヒョードルの氷のように冷たい眼を思い出した。
ヒョードルのあの眼を見ると、こいつきっと何人か人殺しているのだろうなと思ってしまう。
マウントになって相手の上に馬乗りになり、相手の顔面を拳で殴り続けるヒョードル
普通の人間にはあんなこと出来ない。
拳の威力はマットの上にある相手の頭部にもろに伝わる。
相手が受け身を全くとれない中、顔面を殴り続けるヒョードル


この映画の退役軍人の老人はまさにヒョードルだ!

しかも自分の○○を○○保存するヒョードルだ。
ヒョードルよりたちが悪いじゃないか!

ヒョードルだってそんなことしていないはずだ。
いや、もしかするとしているかもしれない。
ヒョードルならしかねない気もする。

 

とにかく『ドント・ブリーズ』は肉体と精神の恐ろしさを知りたい方にはぜひおススメの映画だ。

大きくなった組織が必ず衰退するワケ

アメリカでトランプが大統領選に勝利した大きな要因の一つが、その歯に衣着せぬ自由な物言いだと言われている。
オバマ大統領が不人気だった理由も、PC(ポリティカル・コレクトネス)を重視しすぎたためだと言われており、アメリカで(おそらく世界中で)、人々が自由にものを言えない息苦しさを感じていることがうかがえる。

 

SNSが自由な言論を縛る

 

SNSは我々に自由な言論を拡散する機会を与えてくれた。

役に立つ情報やおもしろいニュース、芸能人の独り言から友人が考えていることまで、あっという間にすごいスピードで拡散していく。
最初はその素晴らしさを感じていた人々も、すぐにその息苦しさに気づいていく。
自分の言動をSNSで見ている人がどう感じているのかを気にしなければならなくなったのだ。
SNS上の友人全員が自分のことを快く思っているわけではない。

そもそも人間というものは、妬みや嫉みでドロドロの存在だ。

それに自分のことを快く思っている人ですら、自分の言動を誤解してしまうことだって十分にありうる。

そうして周りの人々の気分を害さないように気を使っているうちに、何も発言することができなくなっていく。


人気が出て多くの人が使っているSNSが廃れていくのは必然なのだ。


ミクシーが大多数の人のツールに大成長した途端、次にフェイスブックが主流になり、ミクシーは衰退し、フェイスブックの次はツイッター、今最もメジャーなのはインスタグラムなのだろう。
そしておそらくインスタグラムだって衰退するはずだ。

そしてインスタグラムに代わる新たなSNSが流行する。

 

大きくなった組織が衰退するワケ

 

会社にせよ学校にせよ、組織が大きくなりすぎると衰退するワケも同じようなものなのではないかと思う。
アットホームな組織である間はみんな自由に発言するが、組織が大きくなりすぎると途端に自由に発言ができなくなる。
5人の会議であれば割合自由に発言できるが、50人の会議ではなかなか発言しづらい。

 

5人の会議では、議論をうまく機能させ、いい結論を出すことに意識を向けることができるかもしれないが、50人の会議では、自分が今からする発言が自分にとってメリットになるかどうかをまず考える。

 

ついつい「こんなことを言ったら他の会議メンバーからバカだと思われるのではないだろうか」と考えてしまう。

もっと最悪なのは、自分の発言が誰かの気分を害してしまうことだ。

仮に自分の案がとても素晴らしいものだったとしても、新たなアイデアは新たな仕事を生み出し、その仕事は誰かが引き受けなければならない。

仕事量が増えても給料が増えない今のような会社組織の中では、素晴らしいアイデアも社員にとっては新たな負担でしかない。

大きく発展してしまった組織が衰退するのは必然なのだ。

かつてスティーブ・ジョブズは“Stay hungry, stay foolish”と言ったが、“foolish”でありつづけることは組織が生き生きし続けるためには不可欠なことなのだ。

これからのヒーローはバカであり続けることができる人間だと思う。

僕が『ハリー・ポッター』にハマらないワケ~『ファンタスティック・ビースト』を観て

博士です。

 

あの『ハリー・ポッター』の続編だと!?
これは観に行かないと、と『ファンタスティック・ビースト』を観に行った。

 

しかしよく考えると、僕は『ハリー・ポッター』シリーズはほとんど観ていない。
ちゃんと観たのは第一作くらい。
その内容もほぼ覚えていない。

 

これじゃにわかファンじゃないか!!!

 

でも僕は大阪のUSJで「ハリー・ポッター・ライド」にも乗っている!
3時間待ちしてまで乗ったのだ!
ちなみに、絶叫マシン恐怖症の僕はライドに乗った瞬間怖くて目をつぶってしまった。
次に目を開けた時には「よくやった、ハリー」と同級生たちが冒険から帰ってきたハリーを迎えてくれた場面だった。
3時間も待ったのに、ライドの95%以上目をつぶっていた自分が悲しかった。

 

ま、それくらい『ハリー・ポッター』に縁のある僕は当然のこととして『ファンタスティック・ビースト』を観に行ったわけだ。

 

以下に箇条書きにしてこの映画から分かったことをネタバレせずに書こう。
1. 映画に出てくるビーストは本当にファンタスティックだった。
2. 主役ニュート役のエディー・レッドメインよりもジェイコブ役のダン・フォグラーの方が魅力的に描かれていた。
3. 魔法が使えるのが当たり前すぎて、魔法のスペシャル感がなかった。
4. きっと続編が出るなって分かる伏線の未回収があった。

 

正直なところ、引き込まれるほどの力ある作品ではない。
『ハリポタ』好きな人にはそれなりにフックがあるのだろうが、『ハリポタ』にハマってこなかった僕には、あまり引き込まれる要素がなかった。
やはり子供、あるいは子供の心を持ち続けている人には訴えかける作品なのかなとも思う。

 

人生の半ばを過ぎて中年街道をまっしぐら進む僕には魔法なんて信じられないし、信じたくもない。
魔法なんてないし、学問に王道もない、バブル経済を知っている僕には、株や土地売買なんかで永遠に儲け続けることなんてできないことはイヤってくらい分かっている。

 

現代の科学は人間について多くのことを明らかにしてくれている。
脳科学の進歩はすさまじく、脳のさまざまな部位がそれぞれさまざまな機能をつかさどっていることが分かっている。
TVの特番で夢を与え続けてくれたオカルトの中でも、もしかすると存在するかもしれないと思わせる霊現象でさえ、脳のある部位が機能不全になるとそういう現象が起こることが分かっている。
この部位を事故等で欠損した患者は、幻の人間が見え、その人間が自分に語りかけてくる体験をする。

 

この世界のあらゆる現象は全て脳が引き起こしている。
あるのは唯物論
心はどこにあるかといえば、脳の中にあるというのが正解だ。
残念ながら魔法なんて存在しない。

 

ここまで書いて、なぜ僕が『ハリー・ポッター』シリーズにハマらないのかが分かった気がした。
リアリティーがなさすぎる。
なんてことを言うと、元も子もないか。

 

博士の映画評価『ファンタスティック・ビースト』
★★★☆☆